2007年10月26日

パラダイス

 私の家の近くに、パラダイスがあります。
正確に申しますと、車で10分ばかり山を登ったふたつ向こうの集落に差し掛かるちょっと手前、左手に山の斜面を下る細い横道がありまして、おっかなびっくりこれを下って、川沿いにしばらく歩くとそれはあります。

 パラダイスに近づくと、まず聞こえてくるのが犬の鳴き声であります。
それも、10や20ではきかない数の犬が、ワンワンワンワン、これがみんな放し飼いにされていますから、なんだか身の危険を覚えます。
 それからその犬の糞尿の匂い。
土の道が汚らしくぬかるんで、ちょっと迂闊には歩けません。
 
 私がここを訪れたのは、その辺りに大滝と呼ばれる滝があると聞いたからでした。
しかし、別に観光名所という訳でもない山の中の滝ですから、あてにする標識もなく、ちょっと見当を失ったかな、という時に、この犬屋敷が現れたのです。

 幸い、犬は遠吠えするばかりでして、襲ってくるようなことはありませんでしたが、しかし一体、
ここは何なのだろう、と思いました。
中からは、ラジオの音が大きく聞こえて、どうやら人が暮らす家のようではあります。
 道を尋ねようと、犬のいない裏手に回ると、そこには更に、檻に入れられた犬が数匹、私を見てウーウーと唸り声を上げておりました。
声を掛けるも、人の気配はまったく感じられませんでした。

 と、何か大きな生き物の気配を感じて振り向きますと、横手の敷地でのそのそと、草を食んでいるのはロバではありませんか。
 ロバ?
 このロバを囲う柵を柱に、アメリカの牧場のようにアーチを描いた古びた看板が掛けられていて、
そこには下手糞な手書きのペンキ文字で、
「Welcome to paradise」
と、ありました。
 パラダイス?

 私、あまりの想像外のことに、なんだか狐に化かされているような気分になりました。
 泉鏡花の小説に、こんな話がありました。
少年が、綺麗な色の昆虫を夢中で追いかける内に、神隠しのようなものにあってしまう。
 滝を見に来た男が、山道を踏み違えて、おかしなパラダイスへと辿り着く。
なんだかそんな、気分でありました。

 そこへ、一台の車がぶぶうとやって来まして、現れた60風情の男、ばさばさの白髪に、酒呑みに見られるような、濁った目つきとしまりのない口元、これが、このパラダイスの主のようなのでした。

 道を尋ねると、別段、悪い人のようではありませんでしたが、しかし私が、すごい数の犬ですね、
なんて話しかけてもまったくの上の空、ただただ、この時同行した友人の3つになる小さな子供を、
めんこいめんこい、と、じっと見つめているばかりでした。
 なんだか、夜中に襖隔てた隣の間で、シャーッ、シャーッ、と包丁を研ぐ山姥が連想されて、
私、ちょっと怖いような気持ちになりました。

 私が今住むところは、大変な田舎であります。
日本の田舎といえば、これくらいが打ち止めかな、と思われるような場所であります。
 それでも、集落となれば電気や水道は勿論通っておりますし、みんな人並みの暮らしをしていますから、自然が多いといっても、やはり、人の手は至るところに入っております。

 例えば、私の家の前を流れる川。
これ、くるぶしほどの浅い流れですが、それでも昨年、ブルドーザーが入って、ガンガンゴンゴン、
なにやらよく分からない河川工事をしておりました。
 どうしてこんな川に工事が必要なのか理解しかねる思いでしたが、一方で、こんなところにまでやって来ても、やはり人がいるところに住む限りは、こういう自然を切り崩す光景を目にしない訳にはいかないのだな、と思いました。

 ですから私、何となく、あのパラダイスの主の気持ちが分かるような気がいたします。
あのおじさん、恐らくはあの辺り一帯の土地を買って、誰にも手を入れさせない、自分だけの楽園を
作り上げようとしたに違いありません。

 この辺りの山は、ひと山何百万円という値段でして、時々私も、山でも買おうかなぁ、なんて夢想します。
 山でも買って、木を切り倒して道を作って、小屋を建てて、風呂を作って、その入り口にはやはり、
「welcome to paradise」
と掛けるかなぁ。



 


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