2007年06月29日

マッチ

 インドのボンベイで、バンコク行きのチケットを買いました。
よく確かめずに買ったものですから、これがスリランカ経由でありました。
別に経由するのは構わないのですが、困ったことに、乗り継ぎに5、6時間も空くというのです。
 私、出発直前に、空港に着いてからこの事実を知りまして、なに、と思いました。そうしてすぐに、スリランカはビザが要るのかな、と考えました。もしビザが要らなくて、勿論、チケットも無駄にはしたくありませんから、日付の変更も可能でしたら、是非、スリランカに立ち寄っていこう、と考えたのです。

 インド洋に浮かぶ、あのマンゴーのような形をした小さな島。セイロンティーは飲んだことがあるけれど、果たして首都は何処だっけ。私、それくらいスリランカのことを何も知りませんでしたから、これは非常にわくわくする思いつきでありました。

 結局、ビザは1ヵ月空港で貰えまして、チケットも問題なく書き換えが出来ましたので、私、急遽、3週間ほどスリランカに滞在することにいたしました。

 ボンベイからの飛行機が、首都コロンボに到着したのが、すでに夜中の1時頃でありました。
とにかく、右も左も分かりませんから、私、これは夜明けを待つのが無難であろうと考えました。
 時間はいくらでもありますから、まずは一服、そう思いましてズボンのポケットをまさぐると、どうにもマッチが見当たりません。すぐに思い当たったのは、ボンベイの空港でした。
 出発ロビーに、白い上等なソファーがありまして、これが非常にフカフカとして、大変座り心地が良かったものですから、私、ふんぞり返って、ついつい、うとうととしてしまいました。
あの時、ポロリと、ポケットから滑り落ちたに違いありません。

 仕方なく、喫煙所の灰皿の前で、ひとりタバコを吸っている、初老の白人女性に話し掛けました。
「火を貸して貰えますか?」
するとその女性、ちょっとバックをいじくる仕草を見せて、面倒臭かったのか、にこりと笑って、これでいいかしら、と、自分の吸っているタバコを差し出しました。
 私、こういう火の貰い方、とても好きであります。なんだか、オリンピックの聖火を連想いたします。
 その思い、確かに受け取りましたよ。そんな感じでお礼を言って、いやあ、実に美味しい一服でした。
 それにしてもこのご婦人、見たところひとり旅の様子。こんな夜更けに、一体何処に向かう途中なんだろう。袖触れ合うも他生の縁、深夜の空港って、なんだか人の人生に思いを馳せてみたくなる、そんな雰囲気がどこかありますね。

 自分が好きなことを人に押し付けたくなるのは、まったく自然な感情であります。
 私、以前、やはりタバコの火を貸してくれと言われまして、本当はマッチを持っていたのですが、これが俺のやり方だ、なんて言わんばかりに、ズイ、と自分のタバコを差し出しました。
 ところが私、その時、缶コーヒーを飲んでおりまして、その差し出したタバコの吸い口が、コーヒーに汚れて、茶色く、実に汚らしかった。いけないことに、相手が女性でしたから、尚のことそれが恥ずかしく、かと言って、引っ込めるのもなんだかおかしいようでしたので、私、只今コーヒーを飲んでいますよ、分かっていますか、なんて顔をして、別に唾が茶色いわけではないのですよ、そんな人、滅多におりませんよ。ぐびぐびぐびぐび、必要以上に小さな缶を傾けたのでした。

 夜明けまでには、なにせ時間がありますから、しばらくすればどうしてもまた、一服したくなってきます。
 今度は別の場所に行きまして、やはり灰皿の前でちょうどタバコを吸っていた、白人の若いカップルに話し掛けました。
「火を貸して貰えますか?」
すると、女の子の方がこれに反応しまして、しかし、どういうわけか、こちらが怯むような大変な仏頂面をしております。何も言葉を発せずに、如何にも、やれやれなんて顔をして、もぞもぞとバックをいじくり始めました。
 確かに、見ておりますと、バックパックからデイパックを取り出して、そのデイパックからポーチを出し、ポーチからシガレットケースを出して、と、まるでロシア土産のお人形のような、大変面倒臭い手順を踏んでおります。
そうしてようやく取り出しましたライターを、むんず、と私に突き出して、こちらの礼にも何も答えず、終始無言の善行でした。
 この一服、大変いがらっぽい、ひとつも美味しくないものであったこと、言うまでもありません。

 何事も、どうせやるなら楽しくやれよ。そもそも、そんな奥深くにしまっておくなよ。
なんてことは、仏の国スリランカであります、私、決して思ったりはいたしません。
しかし、これに懲りまして、その後はカフェに腰を落ち着けて、そこで貰ったマッチで事なきを得たのでした。

 その昼、宿の近くのマーケットで、20箱くらいがセットになった大量のマッチを購入し、私、ざまあみろ、と、ひとり呟いたのでした。

 


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