2008年03月25日

支配人

 先日、野暮用で、三島まで出掛けました。
その帰り、以前から気になっていた立ち寄り湯に寄りました。
 夜の8時を回っており、家まではまだ、1時間半は掛かる距離がありましたが、、赤ん坊が産まれてから、なかなか風呂に行く機会もなく、久し振りの独り身をいいことに、ひとっ風呂浴びて帰ろうと考えました。

 一見、健康ランドのような大きな建物なのですが、いつ通りかかっても、ガランと巨大な駐車場には、車が数台停まるばかり、その夜も、やはり同じようでありました。

 館内に入って、まず、あれっと思いましたのが、照明が妙に薄暗いことでした。
それから、気味が悪いくらいに静かなのです。
 フロントには、黄色い作務衣を着たおばさんが、ひとりぽつりとつっ立って、広いロビーを見渡すも、あとはひとりの従業員も、お客さんもおりません。

 フロントの左手にある土産物屋は、一応は営業しているようなのですが、まばらに積まれた品物は、
薄っすらと白く埃を被るよう、時折、ウゥーンと地鳴りのような唸りを上げる古い冷蔵ケースには、
ソーセージやらチーズが1、2個、一体、何のために置かれているのか分かりません。
 また、その向かいにあるレストランは、入り口に太いロープが掛けられて、テーブルの上には雑多に
椅子が積まれており、どうやら、大分前から営業していない様子でした。

 想像以上の寂れように、私、俄然、わくわくとしてまいりました。
フロントで、これまた随分と使い込まれた、ふにゃふにゃのタオルを受け取って、風呂に入る前から
もう、大変な掘り出し物に出くわしたような気持ちになりました。

 風呂へと続く長い廊下は、表からでは分かりませんでしたが、建物が斜面に建つためか、途中、
2つも3つも階段を下り、この廊下も、よせばいいのに赤い絨毯なんかが敷いてあり、大変カビ臭くて陰気です。人のいない静けさに加えて、館内には、何の放送も、BGMも流れておらず、
シーンと静まり返る暗い廊下は、何処まで続くのか分からないようでした。
 どんどんと、深い穴倉に向かっているような、そんな気持ちになりました。

 この廊下の途中で、私、あるものが気になって仕方がありませんでした。
それは、至るところ、しつこいくらいに貼られた手書きの貼り紙です。
例えば、

 「段差あり 足元注意 支配人」
 「館内禁煙 支配人」
 「ご自由にお飲み下さい 支配人」

 等々、何でもかんでもお終いに、必ず「支配人」と書かれています。
 雰囲気が雰囲気でもあり、「支配人」というその肩書きが、重く、不気味なものと思えてなりませんでした。

 風呂は、思いのほか立派な、川べりの半露天でした。
大きな湯船がひとつあるばかりの簡素なものでしたが、川の流れる音と、生い茂る木々の梢に月も覗いて、なんだ、いいではないか、と、ちょっと拍子抜けするようでした。

 湯煙の向こうには何人かの人影もあり、駐車場に車もいくらかあったことだし、やはりまるっきり客がいないわけではないのだと、私、少し胸を撫で下ろすようでした。
 ところがこの人影、なんだか様子がおかしいのです。
浴室は、廊下に増して薄暗く、おまけに私、目が悪いですから、てっきり相客とばかり思っておりましたが、よく見ましたら、なんと、そのどれもこれもが、石で出来たお地蔵さんだったのです。
つまりは、何を意図してかは分かりませんが、広い湯船のあちこちに、物言わぬ、お地蔵さんが立っているのです。
さすがにこれには、ぎょっ、といたしました。

 段々と、気味の悪さが立ってきて、早々に風呂から上がり、帰りしな、鍵を返しにフロントに寄りますと、先程のおばさんはもう仕事を引けたのか、代わって中年の男性が、やはりぽつりと立っておりました。バーのマスターのような赤いチョッキを着て、胸には、「支配人」と刺繍が入っておりました。
 ははあ、これが例の、支配人か。

 なんだか狐に化かされたような、そんな立ち寄り湯でありました。


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