2008年04月17日
コロッケ
午前中、スーパーに買い物に行きまして、今日はカレーにするというので、それならばコロッケを
買おうとなりました。私、コロッケカレーは大好きです。
で、お惣菜のコーナーで、妻が5個入りのパックを手に取りますと、ちょうど商品の陳列をしていた
店員さんに、「こちら、揚げたてですよ」と、新しいものを勧められました。
ところが私の妻、「いいです」と言下にこれを断って、足早にその場を立ち去ります。
なんだなんだ、どうして断るのだ、揚げたてのほうが良いではないか。
すると彼女、ニヤリと笑って、
「これね、値札がひとつだけ間違っていたの」
見れば確かに、5個300円の品物に、2個120円と誤った値札がついています。
私、「でかした」と小声で言いまして、まんまと120円で5個のコロッケを手に入れました。
こういうの、まるで罪悪感を覚えません。
いつかも、1000円位するカステラを、60円で買ったことがあります。
これ、レジの入力ミスなのですが、それにしても、60円ですよ。
他にも何か買っていたのならいざ知らず、カステラだけ買って、ですよ。
いくらなんでも、店員だって気がついてもよさそうなものですが、ところがバイトのお姉ちゃん、
ピッとバーコードをやりまして、「はい、60円です」って。
そりゃあ、あんたが抜け作だよ。
ですから私、悪びれることもなく、胸を張って、チャリンと60円支払いました。
またいつでしたか、焼肉屋で散々飲み食い致しまして、私、妻とふたりで焼肉を食べますと、大体
1万円では利かないのが常ですが、この時は、レジで会計をしましたら、「千何百円です」と言うんです。どうやら、追加で束ねた伝票が、まるごと何処かになくなって、最初に頼んだ飲み物だけの会計をするようなのです。
勿論、わざとではありませんから、それがテーブルの下にハラリと落ちたのか、それとも、もともと挟まれていなかったのかは分かりません。
しかし、ビールに焼酎、何杯飲んだか知れない真っ赤な顔をして、もう食えない、と爪楊枝を咥える男に向かって、「はい、千何百円です」
これもやっぱり、あんたが悪いよ。
こういうことを自慢気に言いふらして、腹黒い人間のように思われても困りますから、ちょっと弁明
致しますと、私、いつでもウシャシャと笑ってばかりいるわけではありません。
間違っているよ、と正直に教えてやることだってありますし、それから反対に、旅先などでは、ぼられていると分かっていながら、高い買い物をしてやることだってあるのです。
この手の出来事に遭遇した際、如何なる態度をとるか、私なりの判断基準というものがありまして、それは実際の金の損得という問題ではなくて、やはり感情の問題ですね。
法の良し悪し、道徳の良し悪し、そういうものではなくて、何でしょう、相手の生きる力のようなものを見ているのだと思います。
こういう力が本当にない人は別として、まるでそういうものを持とうとも考えない、そんな相手には、
私、ウシャシャと笑うことにしております。
若いレジのお姉ちゃんが、60円でカステラを売って、後で店長に怒られる。
そりゃあ、怒られたほうがいいよ、と思います。
娘さん、世の中を舐めちゃあいけないよ、と思います。
これが60円に見えるかい?
ただ、ピッピ、ピッピとやってりゃあ、お給金が貰える。そんな労働は、本来ではないんだよ。
関係があるようなないようなお話。
例えば、振り込め詐欺。
それは勿論、騙す人間が悪いに決まっておりますが、騙される人間にもかなり問題がありますよ。
それから、いじめ。
いじめる人間も悪いけど、いじめられて簡単に自殺をする子供のほうが、問題のような気がいたします。
ただ弱きを守る、こればかりでは、生きていくために必要な力というものが、なくなる一方のような気がいたします。
コロッケの値札の誤りを申告しないのは、そんな私なりの、世の中への憂慮があってのことなのです。
買おうとなりました。私、コロッケカレーは大好きです。
で、お惣菜のコーナーで、妻が5個入りのパックを手に取りますと、ちょうど商品の陳列をしていた
店員さんに、「こちら、揚げたてですよ」と、新しいものを勧められました。
ところが私の妻、「いいです」と言下にこれを断って、足早にその場を立ち去ります。
なんだなんだ、どうして断るのだ、揚げたてのほうが良いではないか。
すると彼女、ニヤリと笑って、
「これね、値札がひとつだけ間違っていたの」
見れば確かに、5個300円の品物に、2個120円と誤った値札がついています。
私、「でかした」と小声で言いまして、まんまと120円で5個のコロッケを手に入れました。
こういうの、まるで罪悪感を覚えません。
いつかも、1000円位するカステラを、60円で買ったことがあります。
これ、レジの入力ミスなのですが、それにしても、60円ですよ。
他にも何か買っていたのならいざ知らず、カステラだけ買って、ですよ。
いくらなんでも、店員だって気がついてもよさそうなものですが、ところがバイトのお姉ちゃん、
ピッとバーコードをやりまして、「はい、60円です」って。
そりゃあ、あんたが抜け作だよ。
ですから私、悪びれることもなく、胸を張って、チャリンと60円支払いました。
またいつでしたか、焼肉屋で散々飲み食い致しまして、私、妻とふたりで焼肉を食べますと、大体
1万円では利かないのが常ですが、この時は、レジで会計をしましたら、「千何百円です」と言うんです。どうやら、追加で束ねた伝票が、まるごと何処かになくなって、最初に頼んだ飲み物だけの会計をするようなのです。
勿論、わざとではありませんから、それがテーブルの下にハラリと落ちたのか、それとも、もともと挟まれていなかったのかは分かりません。
しかし、ビールに焼酎、何杯飲んだか知れない真っ赤な顔をして、もう食えない、と爪楊枝を咥える男に向かって、「はい、千何百円です」
これもやっぱり、あんたが悪いよ。
こういうことを自慢気に言いふらして、腹黒い人間のように思われても困りますから、ちょっと弁明
致しますと、私、いつでもウシャシャと笑ってばかりいるわけではありません。
間違っているよ、と正直に教えてやることだってありますし、それから反対に、旅先などでは、ぼられていると分かっていながら、高い買い物をしてやることだってあるのです。
この手の出来事に遭遇した際、如何なる態度をとるか、私なりの判断基準というものがありまして、それは実際の金の損得という問題ではなくて、やはり感情の問題ですね。
法の良し悪し、道徳の良し悪し、そういうものではなくて、何でしょう、相手の生きる力のようなものを見ているのだと思います。
こういう力が本当にない人は別として、まるでそういうものを持とうとも考えない、そんな相手には、
私、ウシャシャと笑うことにしております。
若いレジのお姉ちゃんが、60円でカステラを売って、後で店長に怒られる。
そりゃあ、怒られたほうがいいよ、と思います。
娘さん、世の中を舐めちゃあいけないよ、と思います。
これが60円に見えるかい?
ただ、ピッピ、ピッピとやってりゃあ、お給金が貰える。そんな労働は、本来ではないんだよ。
関係があるようなないようなお話。
例えば、振り込め詐欺。
それは勿論、騙す人間が悪いに決まっておりますが、騙される人間にもかなり問題がありますよ。
それから、いじめ。
いじめる人間も悪いけど、いじめられて簡単に自殺をする子供のほうが、問題のような気がいたします。
ただ弱きを守る、こればかりでは、生きていくために必要な力というものが、なくなる一方のような気がいたします。
コロッケの値札の誤りを申告しないのは、そんな私なりの、世の中への憂慮があってのことなのです。
2008年04月11日
クレーム
先日、チョコ菓子を食べておりましたら、ひとつおかしなものが混じっていました。
おかしいと言いましても、要はチョコレートが溶けて変形していただけなのですが、
これを見た妻は、すかさず、「送ったほうがいい。私に任せておいて」と鼻息を荒くしました。
以前、チョコの詰まったスティック菓子に、1本だけ、チョコが詰まっていなかったことがあったそうで、普通なら諦めてもよさそうなものですが、ご丁寧にその1本を送り返し、後日、夢のようなお菓子セットを手に入れた、という経験があるそうです。
ですから、滅多にない好機を逃してなるものかと、やっきになって、早速その1粒をポストに投函したのでした。
すると後日、本当に、送り返した1粒にはとても見合わぬ立派なお菓子セットが、お詫びの書面と
一緒に届きました。
さすがに、大きな会社は違うなぁ、と思いました。
私だったらきっと、何言ってんだ、チョコレートが溶けなくてどうする、と書いた葉書を送り返してやるに違いありません。
随分と昔の話ですが、旅で知り合ったジャーナリストに、この手のクレーム問題を取材した人がおりました。その人から聞いた話に、今でも忘れられないものがあります。
ある牛乳会社にクレーム品が送られてきまして、それが、紙パックの牛乳に、人だか犬だかの大便が入ったものだったそうです。
どう考えてみましても、製造過程に大便が混じることはあり得ませんから、これはタチの悪いタカリのようなものです。しかし、それでも、この牛乳会社はちゃんと謝罪をし、それなりのお詫びもしたそうです。
こういうおかしな連中は結構いるそうでして、相手が異常であればあるほど、面倒な揉め事にならない内に、丸く収めてしまおうというのが、この業界の一般であるということでした。
かく言う私も、かつて、罪なクレームをつけた覚えがあります。
タイのバンコクで、ラジカセを購入しまして、勿論これ、お店できちんと確かめてから買った物ですから、おかしなところは何もなかったのですが、宿に帰って早速使ってみると、いきなりプッ、と嫌な音が聞こえて、あとはウンともスンとも、まるで動かなくなってしまったのです。
これ、当時私が使っていたアダプターが、200Vと100Vでしたか、とにかく国によって使い分けることが出来るタイプのものでして、どうやらこれを間違えて、必要以上の電気を流してしまったみたいなのです。
ところが、買って30分と経たぬ内に壊してしまったわけですから、いくら自分のせいとはいえ、治まるものが治まりません。で、ダメもとで、いそいそとまた電器屋に出掛けまして、
「なんだか、動かないんだけど・・。どうしてかなぁ・・」
なんて、やってしまいました。
すると店員さん、色々と試した挙句、コートートー(すみません)、と笑顔で新しいものに取り替えてくれました。きっと外人だったから、ことのほか親切に対応してくれたのだと思います。
店員さん、あれ、私が壊したんです。こちらこそ、コートートー。
スリランカの仕立て屋さんで、シャツを買いました。
宿に戻ってよく見てみると、生地に虫食いがあることに気がつきました。
店に戻ってクレームをつけますと、
「穴が開いているのは私のせいではない」と、おばちゃんは言います。
そうかも知れないが、こちらは新品を買ったのだから、穴が開いていれば非常に寂しい気持になる。
取り替えるか、いくらかまけるかしてくれ、と食い下がりますと、
「同じものはない。穴が開いていようがいまいが、私が縫った手間は同じだから、まけることも出来ない」と答えます。
ああだこうだと言い合う内に、
「そんな小さい穴、気にしてどうする。その穴は、お前にとてもよく似合っている」
なんてことまで言い出して、私も段々と、確かにこんな小さな穴を気にすることもないか、という気がしてまいりました。
結局、穴の開いたシャツを手に、何の成果もなく宿に戻りましたが、クレームとは本来、こういうやり取りがあってしかるべきものなのだと思います。
夢のようなお菓子セットも、大便牛乳も、それはそれで立派な対応ですが、この手の泥臭いやり取りが、形をなくしつつあるというのは、少し、寂しいような気もいたします。
おかしいと言いましても、要はチョコレートが溶けて変形していただけなのですが、
これを見た妻は、すかさず、「送ったほうがいい。私に任せておいて」と鼻息を荒くしました。
以前、チョコの詰まったスティック菓子に、1本だけ、チョコが詰まっていなかったことがあったそうで、普通なら諦めてもよさそうなものですが、ご丁寧にその1本を送り返し、後日、夢のようなお菓子セットを手に入れた、という経験があるそうです。
ですから、滅多にない好機を逃してなるものかと、やっきになって、早速その1粒をポストに投函したのでした。
すると後日、本当に、送り返した1粒にはとても見合わぬ立派なお菓子セットが、お詫びの書面と
一緒に届きました。
さすがに、大きな会社は違うなぁ、と思いました。
私だったらきっと、何言ってんだ、チョコレートが溶けなくてどうする、と書いた葉書を送り返してやるに違いありません。
随分と昔の話ですが、旅で知り合ったジャーナリストに、この手のクレーム問題を取材した人がおりました。その人から聞いた話に、今でも忘れられないものがあります。
ある牛乳会社にクレーム品が送られてきまして、それが、紙パックの牛乳に、人だか犬だかの大便が入ったものだったそうです。
どう考えてみましても、製造過程に大便が混じることはあり得ませんから、これはタチの悪いタカリのようなものです。しかし、それでも、この牛乳会社はちゃんと謝罪をし、それなりのお詫びもしたそうです。
こういうおかしな連中は結構いるそうでして、相手が異常であればあるほど、面倒な揉め事にならない内に、丸く収めてしまおうというのが、この業界の一般であるということでした。
かく言う私も、かつて、罪なクレームをつけた覚えがあります。
タイのバンコクで、ラジカセを購入しまして、勿論これ、お店できちんと確かめてから買った物ですから、おかしなところは何もなかったのですが、宿に帰って早速使ってみると、いきなりプッ、と嫌な音が聞こえて、あとはウンともスンとも、まるで動かなくなってしまったのです。
これ、当時私が使っていたアダプターが、200Vと100Vでしたか、とにかく国によって使い分けることが出来るタイプのものでして、どうやらこれを間違えて、必要以上の電気を流してしまったみたいなのです。
ところが、買って30分と経たぬ内に壊してしまったわけですから、いくら自分のせいとはいえ、治まるものが治まりません。で、ダメもとで、いそいそとまた電器屋に出掛けまして、
「なんだか、動かないんだけど・・。どうしてかなぁ・・」
なんて、やってしまいました。
すると店員さん、色々と試した挙句、コートートー(すみません)、と笑顔で新しいものに取り替えてくれました。きっと外人だったから、ことのほか親切に対応してくれたのだと思います。
店員さん、あれ、私が壊したんです。こちらこそ、コートートー。
スリランカの仕立て屋さんで、シャツを買いました。
宿に戻ってよく見てみると、生地に虫食いがあることに気がつきました。
店に戻ってクレームをつけますと、
「穴が開いているのは私のせいではない」と、おばちゃんは言います。
そうかも知れないが、こちらは新品を買ったのだから、穴が開いていれば非常に寂しい気持になる。
取り替えるか、いくらかまけるかしてくれ、と食い下がりますと、
「同じものはない。穴が開いていようがいまいが、私が縫った手間は同じだから、まけることも出来ない」と答えます。
ああだこうだと言い合う内に、
「そんな小さい穴、気にしてどうする。その穴は、お前にとてもよく似合っている」
なんてことまで言い出して、私も段々と、確かにこんな小さな穴を気にすることもないか、という気がしてまいりました。
結局、穴の開いたシャツを手に、何の成果もなく宿に戻りましたが、クレームとは本来、こういうやり取りがあってしかるべきものなのだと思います。
夢のようなお菓子セットも、大便牛乳も、それはそれで立派な対応ですが、この手の泥臭いやり取りが、形をなくしつつあるというのは、少し、寂しいような気もいたします。
2008年04月07日
表現の価値
昔は人生40年。
もっともこれは、病気で亡くなる乳幼児なんかを含む平均値ですから、誰も彼もが短命であったという訳ではありません。無事壮年期を迎えた人の平均寿命は、60才程度だったといいます。
それにしたって、今よりは、随分と短い人生ですよね。
昔の人の写真を見ますと、皆、どうだっ、てな感じで胸を張り、実に立派な顔立ちをしております。
写真が貴重な時代ですから、一撮入魂、魂を込めて写されているのでしょうけど、
一方で、やはり短い人生の、密度というものを感じます。

この写真、明治維新の頃のものですが、みんな若いけど、いい顔していますよね。
ちなみに最前列右に座るのは、坂本竜馬であります。
で、こういう写真を見て思うのが、私もそろそろよい年だなぁ、ということでして、
この時代であれば、晩年であってもおかしくない年に差し掛かりつつあります。
そうなりますと、少し自分の生活を省みるような気持ちにもなりまして、最近こんなことを考えます。
表現、といいますと、なんだか堅苦しいようですが、例えばご飯を作る、それを食べる、こういったことすべてを表現と呼ぶと致しまして、普段、私なんかは、表現したいことをしているだけの明け暮れです。これは、仕事に関しましても同じことでして、自分が良いと思うことを表現して、それに同感してくれる人がいれば、生活が成り立つ、とまあ、ただ、それだけです。
しかし、最近、それだけでいいのかな、と思うのです。
もう少し、後先を考えた表現は出来ないものかな、と思うのです。
自分が表に出すものが、どういう影響力を持つのか。
大した影響力ではないにせよ、それにしたって、一度何かを表に出せば、作用反作用の法則です、
必ず某かの影響を、間違いなく及ぼすものです。
その、出したものがどう働くのか。
出してスッキリというのではなく、出来ればそこに、満足したいものだなと思うのです。
最近、某携帯電話のCMで、学生や子供をターゲットにしたものがありますね。
一応、謳い文句は、子供が心配じゃあないの?、なんて言っていますが、これ、本当でしょうか?
この会社、子供に携帯電話を持たせることが、本当に、子供が安心できる世の中を作ることに繋がると考えているでしょうか?
勿論考えている、と言うならば、仕方がありませんが、しかしどうも、商売ありきの臭いがプンプンといたします。
携帯電話業界は、もう頭打ちだそうですから、あとはお客を取り合うか、こういう需要の残された層に広げていくか、実はそれしか考えていないんじゃあないでしょうか。
先程の影響力、これは、大きな表現であればあるだけ大きな力となりますから、
この手の大きな企業がこの手のことをすれば、きっと小学生も携帯電話を持って当たり前、
という世の中になってゆくに違いありません。
お金儲けもいいけれど、自分たちが、そういう世の中を変える大きな力があることを、大企業の皆さん、きちんと自覚してくださいね。
志こそ、表現の価値であって欲しいと思います。
もっともこれは、病気で亡くなる乳幼児なんかを含む平均値ですから、誰も彼もが短命であったという訳ではありません。無事壮年期を迎えた人の平均寿命は、60才程度だったといいます。
それにしたって、今よりは、随分と短い人生ですよね。
昔の人の写真を見ますと、皆、どうだっ、てな感じで胸を張り、実に立派な顔立ちをしております。
写真が貴重な時代ですから、一撮入魂、魂を込めて写されているのでしょうけど、
一方で、やはり短い人生の、密度というものを感じます。

この写真、明治維新の頃のものですが、みんな若いけど、いい顔していますよね。
ちなみに最前列右に座るのは、坂本竜馬であります。
で、こういう写真を見て思うのが、私もそろそろよい年だなぁ、ということでして、
この時代であれば、晩年であってもおかしくない年に差し掛かりつつあります。
そうなりますと、少し自分の生活を省みるような気持ちにもなりまして、最近こんなことを考えます。
表現、といいますと、なんだか堅苦しいようですが、例えばご飯を作る、それを食べる、こういったことすべてを表現と呼ぶと致しまして、普段、私なんかは、表現したいことをしているだけの明け暮れです。これは、仕事に関しましても同じことでして、自分が良いと思うことを表現して、それに同感してくれる人がいれば、生活が成り立つ、とまあ、ただ、それだけです。
しかし、最近、それだけでいいのかな、と思うのです。
もう少し、後先を考えた表現は出来ないものかな、と思うのです。
自分が表に出すものが、どういう影響力を持つのか。
大した影響力ではないにせよ、それにしたって、一度何かを表に出せば、作用反作用の法則です、
必ず某かの影響を、間違いなく及ぼすものです。
その、出したものがどう働くのか。
出してスッキリというのではなく、出来ればそこに、満足したいものだなと思うのです。
最近、某携帯電話のCMで、学生や子供をターゲットにしたものがありますね。
一応、謳い文句は、子供が心配じゃあないの?、なんて言っていますが、これ、本当でしょうか?
この会社、子供に携帯電話を持たせることが、本当に、子供が安心できる世の中を作ることに繋がると考えているでしょうか?
勿論考えている、と言うならば、仕方がありませんが、しかしどうも、商売ありきの臭いがプンプンといたします。
携帯電話業界は、もう頭打ちだそうですから、あとはお客を取り合うか、こういう需要の残された層に広げていくか、実はそれしか考えていないんじゃあないでしょうか。
先程の影響力、これは、大きな表現であればあるだけ大きな力となりますから、
この手の大きな企業がこの手のことをすれば、きっと小学生も携帯電話を持って当たり前、
という世の中になってゆくに違いありません。
お金儲けもいいけれど、自分たちが、そういう世の中を変える大きな力があることを、大企業の皆さん、きちんと自覚してくださいね。
志こそ、表現の価値であって欲しいと思います。
