2008年02月22日
月とミトコンドリア
昨夜は、11時近くに布団に入りまして、珍しく、なかなか寝付けませんでした。
気がつくと、2時間以上も、あれやこれやと取り留めのないことを考えて、
益々目が冴えてくるようでした。
ダメだこりゃ、と、思い切って起き上がりまして、酒でも飲み直そうかと台所へ行きますと、
土間に差し込む月明かりが、青白く、やけに明るいのです。
なんだなんだと表に出ると、風もなく、思いの他、暖かい夜でした。
月が、とっても綺麗でした。満月でした。
雲ひとつなく、久し振りに、月ってこんなに明るいものかと思いました。
満月には血が騒ぐ。どうりで寝れないわけだと思いました。
しばらく表で、お酒を飲んだり煙草を吸ったり、先程の続きであれやこれやと考えました。
月を見ると、私、いつでも思うことがあります。
例えば、暗い倉庫の中に閉じ込められて、まあ、閉じ込められなくてもいいのですけど、
暗い倉庫の中にいて、見上げると、トタン屋根には錆びに腐食した小さな穴が開いています。
そうしてその穴から、外の光が小さく差し込んでいます。
月を見ると、これと同じような感覚を覚えます。
月はまあるい星だというけれど、実は穴なのではないかしら、と。
あの穴の向こうには、私の知らない明るい世界があるのではないかしら。
お酒を沢山飲みますと、電球を見ただけでもそんな気がしてきます。
明るい電球が、やはり何かの穴に見えてきて、あの電球の向こうには、もっと広い世界があるのではなかろうか。
そういうことを言うと、大概の人は、ぎょっとした顔で私を見つめます。
何処で誰に聞いたのか、宇宙について、こんなお話があります。
我々の体は、小さな細胞が沢山集まって出来ていますね。
この細胞には、昔、理科の授業で習った通り、中心に、細胞核というまあるい物体があります。
その周りには、ミトコンドリアやらナントカやらがプカプカ浮いて、これらが膜に区切られまして、
ひとつの細胞となっています。
この、ミトコンドリアから見た細胞核を想像してみます。
それは、果てしなく大きくて、世界のシンボル、世界の中心と見えるに違いありません。
さしずめ、我々にとっての太陽ようなものではないでしょうか。
すると、隣の細胞は、別の太陽系でして、まあ、これくらいなら頭の足りないミトコンドリアにも想像がつくでしょうが、例えば、足のつま先にある細胞のミトコンドリア、これが果たして、頭の天辺にある、
遥か彼方の銀河系に、思いを馳せることが出来るでしょうか。
ミトコンドリアにとりましては、このように途方もなく大きな世界、それが、やっとひとりの人間です。
ですから、我々人間も、それから地球も、もっと言えば、太陽系、銀河系、ナントカ星雲、
それらのものはすべて、我々が想像も出来ないくらい巨大な、大きなひとつの生命体の一部なのではないでしょうか。
私、これを聞いて、成程なぁ、と思いました。そうに違いない、と思いました。
ですから、何かの席で宇宙の話になりました時、私、ミトコンドリアを連発して、これを力説いたしました。その時は、ぎょっとはされませんでしたけど、なんだかみんな、不思議な顔をしておりました。
ミトコンドリア?今は宇宙の話だよ。
昨日の晩、月を見ながら、久し振りにそんなことを考えました。
気がつくと、2時間以上も、あれやこれやと取り留めのないことを考えて、
益々目が冴えてくるようでした。
ダメだこりゃ、と、思い切って起き上がりまして、酒でも飲み直そうかと台所へ行きますと、
土間に差し込む月明かりが、青白く、やけに明るいのです。
なんだなんだと表に出ると、風もなく、思いの他、暖かい夜でした。
月が、とっても綺麗でした。満月でした。
雲ひとつなく、久し振りに、月ってこんなに明るいものかと思いました。
満月には血が騒ぐ。どうりで寝れないわけだと思いました。
しばらく表で、お酒を飲んだり煙草を吸ったり、先程の続きであれやこれやと考えました。
月を見ると、私、いつでも思うことがあります。
例えば、暗い倉庫の中に閉じ込められて、まあ、閉じ込められなくてもいいのですけど、
暗い倉庫の中にいて、見上げると、トタン屋根には錆びに腐食した小さな穴が開いています。
そうしてその穴から、外の光が小さく差し込んでいます。
月を見ると、これと同じような感覚を覚えます。
月はまあるい星だというけれど、実は穴なのではないかしら、と。
あの穴の向こうには、私の知らない明るい世界があるのではないかしら。
お酒を沢山飲みますと、電球を見ただけでもそんな気がしてきます。
明るい電球が、やはり何かの穴に見えてきて、あの電球の向こうには、もっと広い世界があるのではなかろうか。
そういうことを言うと、大概の人は、ぎょっとした顔で私を見つめます。
何処で誰に聞いたのか、宇宙について、こんなお話があります。
我々の体は、小さな細胞が沢山集まって出来ていますね。
この細胞には、昔、理科の授業で習った通り、中心に、細胞核というまあるい物体があります。
その周りには、ミトコンドリアやらナントカやらがプカプカ浮いて、これらが膜に区切られまして、
ひとつの細胞となっています。
この、ミトコンドリアから見た細胞核を想像してみます。
それは、果てしなく大きくて、世界のシンボル、世界の中心と見えるに違いありません。
さしずめ、我々にとっての太陽ようなものではないでしょうか。
すると、隣の細胞は、別の太陽系でして、まあ、これくらいなら頭の足りないミトコンドリアにも想像がつくでしょうが、例えば、足のつま先にある細胞のミトコンドリア、これが果たして、頭の天辺にある、
遥か彼方の銀河系に、思いを馳せることが出来るでしょうか。
ミトコンドリアにとりましては、このように途方もなく大きな世界、それが、やっとひとりの人間です。
ですから、我々人間も、それから地球も、もっと言えば、太陽系、銀河系、ナントカ星雲、
それらのものはすべて、我々が想像も出来ないくらい巨大な、大きなひとつの生命体の一部なのではないでしょうか。
私、これを聞いて、成程なぁ、と思いました。そうに違いない、と思いました。
ですから、何かの席で宇宙の話になりました時、私、ミトコンドリアを連発して、これを力説いたしました。その時は、ぎょっとはされませんでしたけど、なんだかみんな、不思議な顔をしておりました。
ミトコンドリア?今は宇宙の話だよ。
昨日の晩、月を見ながら、久し振りにそんなことを考えました。
2008年02月15日
歯
先日、近所のおばちゃんが、転んで腕を怪我してしまいました。
関節かスジを痛めたそうで、左腕が、肘より上に上がりません。
きちんと治療をするには、手術が必要で、勿論、入院・リハビリもしなくてはいけません。
ところがこのおばちゃんは、やはり体の悪いおじさんの介護をしておりますから、
そういう時間が取れないのだと言います。
もう、どうせ年寄りだから、ちょっとくらい不便でもいいの。痛くなければいいの。
そんなことを言います。
私も、それでいいと思います。
治せるものを治さないのは、勿体ないような気もいたしますが、反面、それが自然というものだろう、
なんて思います。
どうしてそんな風に思うのかと申しますと、私自身、医者が極端に苦手であるからです。
内科に外科、歯医者に目医者、とにかく私、医者というものにはなるべく掛かりたくありません。
ですから、1週間位熱が下がらなくたって、まず、医者に行こうとは考えません。
何故と言うに、病院という場所に近寄りたくないのです。
井上陽水の昔の歌に、
悲しい人とは会いたくもない
笑える場所なら何処へでも行く
なんてフレーズがありましたが、本当に、その通りだと思います。
どうして具合が悪いのに、病んだ人々が集まる場所に行かねばならぬのか。そう思います。
しかし、そんな理屈をこねていて、なかなか医者に行かずにいたら、私、奥歯が一本なくなってしまいました。
だいぶ前から、舌で触るだけでもキィーンと痛かった虫歯を、それでも放っておきまして、
ある日飲み屋で、そんなことはすっかり忘れて、うははと笑いながら、その歯でスティック人参を
齧ってしまいました。
ギュイーンとまさに、稲妻が走りました。
体がびくりと突っ張って、頭がビリビリ痺れました。
本当に、気を失うくらい、痛かったです。
それからしばらくしましたら、ポロリと抜けてしまいました。
せいせいしました。
ところが、抜けるまでの数日は、さすがに私も医者に行くべきかな、と考えまして、
話のついでに、いくらかの人々に相談したりもいたしました。
ほとんどの人が、何をしているんだ、早く医者に行け、と言った反応で、
殊、歯医者が嫌いな私は、大変憂鬱になりました。
私の友人に、三重の山奥で原始人のような暮らしをする強烈な人がおりますが、この人までもが、
それは歯医者に行ったほうがいい、なんて言って、私、信じていたものに裏切られたような寂しさを味わいました。
ただひとり、
いいんだよ。それが自然なんだから。歯なんて抜けるためにあるんだよ。
そう言った人物がおりまして、それは、私の4つ違いの姉でした。
この姉、ネパールの山奥に住んでおりまして、修行と称して洞窟にこもったり、冷たい川で泳いだり、各地の寺をまわったり、と、ひと言で申しますと、変人です。
私も変人を姉に持ち、困ったものだと、事あるごとに説教などを垂れておりましたが、
しかし、この時ばかりは、心強い同志を得たような気持ちになりました。
そうだよなあ。それがやっぱり自然だよなあ。
結局、何が言いたいのかと申しますと、人の常識、人の欲、そういったものから外れた世界は、
普段はなかなか考えづらいものですが、しかし、自然の大きな流れというものに思いを馳せることが、たまには、人の世界の救いとなることもあるのではないでしょうか。
以上、奥歯の抜けた、変人の弟でした。
関節かスジを痛めたそうで、左腕が、肘より上に上がりません。
きちんと治療をするには、手術が必要で、勿論、入院・リハビリもしなくてはいけません。
ところがこのおばちゃんは、やはり体の悪いおじさんの介護をしておりますから、
そういう時間が取れないのだと言います。
もう、どうせ年寄りだから、ちょっとくらい不便でもいいの。痛くなければいいの。
そんなことを言います。
私も、それでいいと思います。
治せるものを治さないのは、勿体ないような気もいたしますが、反面、それが自然というものだろう、
なんて思います。
どうしてそんな風に思うのかと申しますと、私自身、医者が極端に苦手であるからです。
内科に外科、歯医者に目医者、とにかく私、医者というものにはなるべく掛かりたくありません。
ですから、1週間位熱が下がらなくたって、まず、医者に行こうとは考えません。
何故と言うに、病院という場所に近寄りたくないのです。
井上陽水の昔の歌に、
悲しい人とは会いたくもない
笑える場所なら何処へでも行く
なんてフレーズがありましたが、本当に、その通りだと思います。
どうして具合が悪いのに、病んだ人々が集まる場所に行かねばならぬのか。そう思います。
しかし、そんな理屈をこねていて、なかなか医者に行かずにいたら、私、奥歯が一本なくなってしまいました。
だいぶ前から、舌で触るだけでもキィーンと痛かった虫歯を、それでも放っておきまして、
ある日飲み屋で、そんなことはすっかり忘れて、うははと笑いながら、その歯でスティック人参を
齧ってしまいました。
ギュイーンとまさに、稲妻が走りました。
体がびくりと突っ張って、頭がビリビリ痺れました。
本当に、気を失うくらい、痛かったです。
それからしばらくしましたら、ポロリと抜けてしまいました。
せいせいしました。
ところが、抜けるまでの数日は、さすがに私も医者に行くべきかな、と考えまして、
話のついでに、いくらかの人々に相談したりもいたしました。
ほとんどの人が、何をしているんだ、早く医者に行け、と言った反応で、
殊、歯医者が嫌いな私は、大変憂鬱になりました。
私の友人に、三重の山奥で原始人のような暮らしをする強烈な人がおりますが、この人までもが、
それは歯医者に行ったほうがいい、なんて言って、私、信じていたものに裏切られたような寂しさを味わいました。
ただひとり、
いいんだよ。それが自然なんだから。歯なんて抜けるためにあるんだよ。
そう言った人物がおりまして、それは、私の4つ違いの姉でした。
この姉、ネパールの山奥に住んでおりまして、修行と称して洞窟にこもったり、冷たい川で泳いだり、各地の寺をまわったり、と、ひと言で申しますと、変人です。
私も変人を姉に持ち、困ったものだと、事あるごとに説教などを垂れておりましたが、
しかし、この時ばかりは、心強い同志を得たような気持ちになりました。
そうだよなあ。それがやっぱり自然だよなあ。
結局、何が言いたいのかと申しますと、人の常識、人の欲、そういったものから外れた世界は、
普段はなかなか考えづらいものですが、しかし、自然の大きな流れというものに思いを馳せることが、たまには、人の世界の救いとなることもあるのではないでしょうか。
以上、奥歯の抜けた、変人の弟でした。
2008年02月05日
穴に思う
うちの裏山に、大きな穴があります。
この穴、私が掘ったわけではありませんが、大いに活用しております。
どう活用しているのかと申しますと、いらないものは何でもかんでも、みんなこの穴に埋めてしまうのです。
とは言いましても、基本的に土に還らないものは埋めませんから、その主は、いらない食べ物ですね。それから、刈った草や燃やした灰、そういったものです。
私、裏庭で畑をやっておりますが、今の季節ですと、大根、白菜、キャベツ、ブロッコリー、ほうれん草等々、他にも結構色々と植えております。
ところが、折角大きく育ったこれらの野菜を、私、ほとんど食べません。
元来、野菜が左程好きではない、という理由もあるのですが、それよりも、こういう旬の野菜は、
食べ切れないほど近所から頂くのです。
平たく言いますと、自分の野菜の出番なんかないのです。
ああ、やっと白菜が減ってきた、と思うと、また2玉、嫌がらせのように玄関先に置いてあります。
本当に、愕然とします。
私、白菜は常時、5玉くらい持っております。
大根だって負けてません。
丸大根に長大根、いつでも7,8本は持っています。
泥棒に入られたら、大根でひっぱたいてやろうと思います。
そんなにあるのなら、漬物にでもすればいい。
しかし、漬物は漬物で、ちゃんと別個にやって来るのです。
白菜の塩漬けや沢庵は、実際、もう見るのも嫌なくらいです。
ですから、どうしても、無駄にしてしまうんですね。
いくら善意といったって、馬じゃあないんですから、大根ばかり齧ってはいられません。
そこで、こういう野菜を、えいっえいっ、と、穴に捨ててしまうのです。
それから、頂いたおかず。これも結構、無駄にしてしまいます。
味が付いていますと、どうしても好き嫌いがありますし、日持ちがしません。
ですからやっぱり、コノヤロコノヤロ、と、穴に捨ててしまうのです。
ところが、そのおかずをくれたおばちゃんに会って、「どうだった?」なんて聞かれますと、
まさか穴に捨てたとは言えませんから、美味しく頂いたよ、と答えます。
こういう嘘は、人としての礼儀ですから、仕方がありません。
しかし、この礼儀がまた同じおかずを呼び寄せて、コナクソコナクソ、となる訳です。
こういう物をくれる側の人々を観察しておりますと、実は当人達も、作り過ぎてその処理に困っているようなのです。
この辺りは、年寄りのひとり暮らしか、夫婦ふたりきり、という家がほとんどでして、
畑はみんな、あくまでも自分たちが食べる分としてやっております。
それなのに、ひと冬で白菜を50玉も60玉も作ったりして、大根だってなんだって、
とにかくどうしてそんなに作るの?というほど作ります。
これ、結局は、畑仕事が完全に生活の一部になっておりますから、また、土地がないわけでもありませんから、きっと家庭菜園のような小さな規模では、やり甲斐がないのでしょうね。
で、私、日本の田舎のこういう風景は、何処も同じようではないか、と思うのです。
何処でもこういう人たちが、沢山の野菜を作って、持て余している。
ひどい奴になると、穴に埋めたりしている。
ちなみにこの野菜、いわゆる無農薬で、この辺りではみんなそれが当たり前です。
結局、商売ではありませんから、見栄えは関係ないんですね。
一方で、問題となっている中国の毒菜なんかを、わざわざお金を払って買っている人たちもいる。
やれ商売だ、やれ大量流通だで、おかしなものが出回って、そのくせ日本の食料自給率は40%にも満たないといいます。
なんとかこのふたつの世界を、うまい具合にパイプでつなぐことは出来ないものでしょうか。
何かよい仕組みがあればいいのになぁ、と思います。
この穴、私が掘ったわけではありませんが、大いに活用しております。
どう活用しているのかと申しますと、いらないものは何でもかんでも、みんなこの穴に埋めてしまうのです。
とは言いましても、基本的に土に還らないものは埋めませんから、その主は、いらない食べ物ですね。それから、刈った草や燃やした灰、そういったものです。
私、裏庭で畑をやっておりますが、今の季節ですと、大根、白菜、キャベツ、ブロッコリー、ほうれん草等々、他にも結構色々と植えております。
ところが、折角大きく育ったこれらの野菜を、私、ほとんど食べません。
元来、野菜が左程好きではない、という理由もあるのですが、それよりも、こういう旬の野菜は、
食べ切れないほど近所から頂くのです。
平たく言いますと、自分の野菜の出番なんかないのです。
ああ、やっと白菜が減ってきた、と思うと、また2玉、嫌がらせのように玄関先に置いてあります。
本当に、愕然とします。
私、白菜は常時、5玉くらい持っております。
大根だって負けてません。
丸大根に長大根、いつでも7,8本は持っています。
泥棒に入られたら、大根でひっぱたいてやろうと思います。
そんなにあるのなら、漬物にでもすればいい。
しかし、漬物は漬物で、ちゃんと別個にやって来るのです。
白菜の塩漬けや沢庵は、実際、もう見るのも嫌なくらいです。
ですから、どうしても、無駄にしてしまうんですね。
いくら善意といったって、馬じゃあないんですから、大根ばかり齧ってはいられません。
そこで、こういう野菜を、えいっえいっ、と、穴に捨ててしまうのです。
それから、頂いたおかず。これも結構、無駄にしてしまいます。
味が付いていますと、どうしても好き嫌いがありますし、日持ちがしません。
ですからやっぱり、コノヤロコノヤロ、と、穴に捨ててしまうのです。
ところが、そのおかずをくれたおばちゃんに会って、「どうだった?」なんて聞かれますと、
まさか穴に捨てたとは言えませんから、美味しく頂いたよ、と答えます。
こういう嘘は、人としての礼儀ですから、仕方がありません。
しかし、この礼儀がまた同じおかずを呼び寄せて、コナクソコナクソ、となる訳です。
こういう物をくれる側の人々を観察しておりますと、実は当人達も、作り過ぎてその処理に困っているようなのです。
この辺りは、年寄りのひとり暮らしか、夫婦ふたりきり、という家がほとんどでして、
畑はみんな、あくまでも自分たちが食べる分としてやっております。
それなのに、ひと冬で白菜を50玉も60玉も作ったりして、大根だってなんだって、
とにかくどうしてそんなに作るの?というほど作ります。
これ、結局は、畑仕事が完全に生活の一部になっておりますから、また、土地がないわけでもありませんから、きっと家庭菜園のような小さな規模では、やり甲斐がないのでしょうね。
で、私、日本の田舎のこういう風景は、何処も同じようではないか、と思うのです。
何処でもこういう人たちが、沢山の野菜を作って、持て余している。
ひどい奴になると、穴に埋めたりしている。
ちなみにこの野菜、いわゆる無農薬で、この辺りではみんなそれが当たり前です。
結局、商売ではありませんから、見栄えは関係ないんですね。
一方で、問題となっている中国の毒菜なんかを、わざわざお金を払って買っている人たちもいる。
やれ商売だ、やれ大量流通だで、おかしなものが出回って、そのくせ日本の食料自給率は40%にも満たないといいます。
なんとかこのふたつの世界を、うまい具合にパイプでつなぐことは出来ないものでしょうか。
何かよい仕組みがあればいいのになぁ、と思います。
