2007年12月26日

星にあぐらを

 クリスマスも終わり、すっかり年の瀬ですね。
ついこの間、餅つきで誤って近所のおばちゃんの指をついてしまったと思ったら、あれからもう一年、月日が流れるのは実に早いものです。
うちの近所では、嫁と姑が餅をついていて、合いの手を入れる姑の頭を、嫁が杵でついちゃった、
なんていう事件がありました。どうやら嫁は含むところがあったらしい、というのがもっぱらの噂です。

 この時節になりますと、やれ今年はどんな年だった、来年はかくありたい、なんて言葉をよく耳に
いたします。
そこで、ちょっと運勢のお話。

 私、占いが好きという訳ではありませんが、雑誌の隅っこに見かけたりすると何となく気になりまして、必ず目を通します。
 占いにも色々とありますが、やはり誰しも希望を持ってこれを見る訳ですから、自分に都合のいいことが書かれているほうが嬉しいですよね。
 そこで、悪いことは忘れて、都合のいいことばかりを四方八方から集めてきまして、
これを要約いたしますと、私の来年の運勢、とっても良いのだそうです。
なんでも、12年に一度の当たり年なのだそうです。

 こういう1年を言い当てる占いではなくて、生まれ持った星を占うようなものもありますね。
これもやはり同じ方法で、色々なところから良い情報だけを集めてきまして要約すると、
これまた私の星、大変運気が良いのです。

 どう良いのかと申しますと、まず、金に困らないのだそうです。
金に困らない代わりに、金は貯まらないのだそうです。
これ、まったく種類の違う幾つかの占いが、揃って同じことを言っておりますから、なかなかの信憑性があると思われます。
また、実際にこれまでの人生に、ぴたりと当てはまっているような気もいたします。

 そこで、これを前提に振り返りますと、確かに思い当たることがあるのです。

 私、デパートやスーパーなんかに行きますと、非常によく、「いらっしゃいませ」と言われます。
ひいき目を抜きにして、そう声を掛けられることが人よりも間違いなく多いと思います。
 商品の陳列に夢中であった店員が、私が近くを通ると、はっと顔を上げて、「いらっしゃいませ」。
 他のお客さんに何かを説明していた店員が、私の影が近づいた途端、はっ、「いらっしゃいませ」。
これ、本当ですよ。とにかく大変な歓迎振りなのです。
 実際にこのことに気がつきまして、これを証明すべく友人とデパートに出掛けましたら、この友人、私の「いらっしゃいませ」の言われっ振りに驚いておりました。

 で、なんでこんな事が起こるのかと考えますと、ここで例の星なのです。
皆さん、商売に携わる人々は、私の金に困らないという星を、目には見えずとも、何となく、
気配か何かで感じているのではないでしょうか。
 あ、金に困らない星がやって来た。
 もっと大袈裟に言えば、福の神がやって来た。
無意識に、そんな風に感じているんじゃあないでしょうか。

 私、現在自分のデザインに「萬年」という雅号で落款を入れておりますが、来年からはこれを「大黒」と改めようと考えております。これ、真面目な話です。

 こういう根拠のない運勢に、その気になるのはどうかとも思いますが、最近私、こう考えるのです。
 そろそろ、あれやこれやと将来の心配をするのは止めて、自分の星に、どかっとあぐらをかいてもよい時分ではなかろうか。
事実、これまでも、人や仕事に恵まれて、何不自由なくやってこれたではないか。
この先どうなるか分からない、と一生懸命あくせくするよりも、開き直って、なに、俺は大黒なのだと、ひとつハムスターでも飼ってみたらどうだろう。

 しかし、こんなことを考えているのは、紛れもなく、実は私、冬場になって仕事があんまり暇ですから、しょっちゅうヤキモキしていることの裏返しなのです。

 「いらっしゃいませ」の話をある友人にいたしますと、それは万引き防止策だ、と言われました。
怪しい客にはそうやって声を掛けるものなのだそうです。

 大黒が一転して、万引き常習者。
まったく世知辛い世の中です。  

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2007年12月13日

断酒

 私、毎日欠かさずにお酒を飲みます。
以前、人から真面目に、アル中ではないか、と心配されたことがありますが、別に自分では、アル中だとは思っておりません。
 しかし、頭のおかしな人間が、俺はおかしくないのだと、声高らかに言い張れば言い張るほど、
余計におかしく見えてくるのが世間の目というものですから、私、なるべく控えめに、自分はアル中なんかじゃあないんだよ、と思うようにしております。

 アル中でないのなら、1日でも酒を抜いてみろ。
そんな無茶なことを言う者もおりますが、しかしこれ、酒をよく飲まない人の勘違いだと思うのです。

 例えば、まあ、そんなことはまずありませんが、例えば家に一滴のお酒もない、なんて事態に遭遇して、果たして私、夜中に台所でべろべろと、粕漬けの容器の蓋を舐めたり、みりんをガブ飲みしたりするでしょうか。
 これをすると言うならば、さすがにアル中と呼ばれても仕方がありませんが、しかし、私の答えは、
毅然として、ノー、であります。舐めません、そんなもの。
 つまり私、お酒を飲みたいからお酒を飲んでいるだけでして、なにも、アルコールを体に吸収したくて酒を飲んでいる訳のではないのです。
 この違い、分かって頂けますでしょうか。

 ところが昨日は、なんと一滴のお酒も飲みませんでした。
健康な状態でお酒を抜く、なんていうことは、それこそ10年や15年、一日もなかったような気が
いたします。
もっとも私、病気で倒れることも滅多にありませんから、実際に酒を口にしない日といえば、
2年に一度くらいなものでしょうか。
それでも、風邪に熱を出して酒を控えた翌朝は、決まって自分が誇らしく思えるものです。
 ああ、やっぱりか。
 そうれ見ろ。
 やっぱり俺は、アル中なんかじゃあないんだ。
 見事に1日、酒を抜いて見せたじゃあないか。
なんて、変に自信がつくのです。
まして昨日は、体の調子がおかしい訳でもないのに、です。
この自信、益々深まるばかりです。

 で、どうして酒を抜いたのかと申しますと、妻の出産が、お医者さん曰く、いよいよいつ来てもおかしくない、間近なものとなったからであります。

 まずは陣痛が始まった時に、車でひと山越えて病院まで連れて行かねばなりません。
よし、それはなんとか、タクシーを呼ぶなり近所の人に頼むなりして譲っても、
着いたその先で、ウンウンと必死に唸る妻、これを頑張って、と励ます先生や助産婦さん、
神聖な場所で真剣な人々を目の前に、スルメイカをくわえながら赤い顔でニタニタと、どうにも酒臭い息で一緒になってスウスウハア、
これではやっぱり、人として失礼な気がするのです。

 ですから、酒を抜くことに勿論異存はありませんが、しかし問題は、いつから抜こうかということなのです。
なにせ、お産というものはいつ始まるのか分かりません。
予定日なんていうものは、あってないようなものですし、とにかく私としては、出来る限り、どんぴしゃりで、酒を抜きたいのです。
折角酒を抜いたのに、何も起こらなければ、やっぱり抜き損という言葉が頭を掠めます。
 何かよい方法はないかなぁ、と考えますが、こればっかりはどうにもならないようでして、あんまり
こういうことを言っていると、その内、妻も怒り出しまして、そもそも臨月に入ったら止めると言っていた
じゃあないか、なんて、こちらが口答えできないようなことを言い出します。

 せめて、どんズバリの日を教えてくれなくとも、例えば、何曜日だとか、偶数奇数どちらの日だとか、
時間帯だって構いません、午前中だ午後遅だ、そんなことだけでも分かればなぁ、と思います。

 倍率は低くなるけれども、確率は上がる。ルーレットなんかにそういう賭け方がありますよね。

ビールを2本までとするから、月水金なのか火木土なのか、知りたい。
ビールを1本までとするから、今週なのか今週じゃあないのか、知りたい。
粕漬けの蓋を舐めるだけとするから、今日なのか、今日じゃあないのか、教えて欲しい。

 無事の出産を、願って焦がれる毎日です。

 追記

 私、只今家に戻ってまいりまして、外で大いに焼肉を食べてまいりました。
焼肉といえばどうしても、ビールやサワーが欠かせませんから、仕方がなく、数杯飲んでしまいました。
 今日は、何事も起こらなければよいなぁ。
   

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2007年12月05日

続・屋根裏


 相変わらず、屋根裏ばかりをいじくっています。
手をつけるのが億劫で、あんなに重くのしかかっていた屋根裏が、今ではなくてはならないくらい、
これが終わってしまったら何を楽しみに生きていこうか、と思うくらい、
毎日の生活の、大黒柱となっております。

 掃除は中途半端に投げ出しまして、最近は、床板張りをやっております。
同じことばかりを延々繰り返すというのは、どうしても気力が続きにくいものでして、
ですから、とりあえず掃除が終わった部分に床を張り、そうしてそこに座って、お酒を飲んだり煙草を吸ったり、夢がある程度現実となったことを味わって、それからまた、次の部分に取り掛かります。
やはり、そうでなくっちゃあ、続きません。

 あの万里の長城にしてみても、親から子、子から孫へと何代も掛かって築き上げたものですから、実際の労働に従事する者は、自分が生きている間にその完成を見ることが叶いません。
そうなれば、先の見えない単調な作業の繰り返しに、絶望的になるのが人間の常でして、
こういう労働力の倦怠を懸念した時の権力者は、工事を細分化し、小さな部分をひとつひとつ完成
させていく、という方針に切り替えたのだと聞きます。
 ですから、私が中途で掃除を放り出したのも、まんざら理に適わぬものではないのです。

 子供の頃、家の庭に地下室を作ろうと考えました。
ショベルで穴を掘って、その建築資材に考えたのは、段ボール箱でした。
これ、蜜柑の空き箱であったと記憶しております。
 穴を掘るというのは、やってみると意外にも大変な作業でして、まして小学生の私には、
夢に見た地下室、恐らくは6畳ひと間くらいの部屋を思い描いていたのだと思いますが、これだけの
土をほじくり返す体力などはとてもなく、もっとも、そんな体力は今でもないと思いますが、
とりあえずは、段ボール箱1箱分の見当の穴を掘った時点で、早速その蜜柑箱をはめ込んでみたのでした。ところがそれでも、深さが足らずに、箱は、3分の2程度が埋まったばかりでした。

 しかし、形はどうあれ、目の前に具現化し始めた自分の夢に、私は非常にわくわくといたしました。
半分地中に埋まった蜜柑箱に、体育座りで納まって、それは、いくら子供とはいえ、身動き出来ないくらいに窮屈な体勢でした。
それでも私は、そこでお菓子を食べながら、漫画を読んだり、口笛を吹いたり、ともかくも、腰から下半分は、紛れもなく地下室であったのです。
 近所の人は、地表に半分姿を覗かせ、黙然と座り続ける私に、
一体あそこの子供は何に取憑かれたろう、と思ったやも知れません。

 で、私の屋根裏。
これよりは、さすがにいくらか進歩しているような気がいたします。

 そもそもは、下の部屋の天井板、これがそのまま屋根裏の床となっている訳ですが、
これが大変古い板でして、迂闊に歩けばみしみしと、いつ底が抜けるか分かりません。
そこで、新たに根太を組んで、板を張り、ちゃんとした床を作ろう、と作業を始めた訳ですが、
しかしこれが、思ったよりも大変でした。

 よく見れば、柱も壁も、この家自体が微妙に傾いております。
この傾きと、それから長い年月に変形した床のうねりと、それらが一方向に均一に、という訳ではありませんから、あっちが高かったりこっちが高かったり、一体何処を基準に水平を作ればよいのか分かりません。
 おまけに私の日曜大工、きちんと寸法を測ったり、図面を引いたりいたしませんで、すべてが目分量ですから、まあいいや、と進めるうちに、張った床が広がれば広がるほど、最初の微妙な狂いが段々と、大きな傾斜となって現れ始めました。
今では、ビー玉がコロコロと、際限なく転がるような傾きようです。

 しかし、折角張った板を剥がしてやり直すのは億劫ですし、なに、私の家にはビー玉なんてありません、仮に引き出しの隅っこで見つけても、そんなものは金槌で叩き壊してやればよいのです。
要は、丸いものを置かなければ、何も転がらずに済むのです。
 床板を傾かせているのは、私の大雑把な仕事ではなく、傾いてると思う心なのだと思うのです。

 お釈迦様も、こう仰っております。
腹が減った苦しみを取り除くためには、とるべき道がふたつある。
食べ物を口にするか、腹が減っていることを忘れるか。
 一生懸命張った床板の傾きを取り除くためには、やり直すか、傾いていることを忘れるか、
このどちらかしかないのです。

 しかし、傾いていることを忘れてしまうということは、自然、自分がこれに平行して傾いてしまっていることになりますから、それが当たり前となるならば、今度は世の中が傾いて見えるに違いありません。
 薄暗い屋根裏で、自分が変に斜めに傾いて、見るもの聞くものすべてを、曲がってんなぁ~、
傾いてんなぁ~、なんてぶつぶつと呟いて・・。

 ああ、やっぱりやり直そうかなぁ。


   

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2007年12月03日

湯煙考

 最近、海外に出ると言ってもせいぜいひと月ふた月ですから、旅行中に日本食が恋しくなる、ということはまずありません。
ですから、帰国してさっそく蕎麦や何かをすすっても、昔のように震えるような喜びを感じることはなくなりました。
 その代わりに、最近震えてしまうのが、風呂であります。
空港からのその足で、必ず何処かの銭湯に立ち寄りまして、帰国するのは大抵朝の便ですから、
午前中のひとっ風呂、これがたまらないのです。

 午前中でも、風呂に入っている人間というのは結構いるものでして、一体この人たちはきちんと働いているのだろうか、なんて、他人事ながらも少々心配になります。
 モウモウと立ち昇る湯煙の中、湯船のへりに腰掛けて、何やら世間話をしているじいさん。
かと思えば、露天風呂ではその辺の床に裸で大の字に寝転ぶ者もいて、
いやあ、実にのん気極まりない。
 こういう光景を、いまだ外国を旅している感覚が抜けきらぬ目で眺めると、日本の風呂文化って、
改めて素晴らしいなぁ、と思います。

 それからもうひとつ嬉しいことは、外国を旅していると、それぞれの国の習慣というものが当然ありまして、これがなかなか身につくものではありません。
 我々は、旅をすると言っても、主に旅行者が動きやすい場所を動いているだけでして、もっとディープな、その土地に暮らす人たちだけが集う場所、そんな場所に出入りするには、この習慣なしには
なかなかやりづらいものがあります。
 例えば以前、旅先で同じように公共浴場に行ったことがありますが、勝手が分からずにまごまごとするばかりで、ちっとも落ち着いた気分になれませんでした。
 ちょっと珍しい料理を食べようと出掛けても、言葉も通じなければ、そのオーダーの仕方も食べ方も分からない。そんな経験が、掘り起こせば随分とあります。

 ところが、ここは、日本の風呂なのです。
誰かに何かを尋ねなくたって、私、ちゃんとその入り方を知っています。
 かけ湯を流して、体を洗って、湯船に浸かって、ああ、と言う。
なんだか、そういう当たり前のことが出来る自分に、誇りさえ覚えるようです。
どうだ、俺は知っているぞ。ここは、俺の暮らす国なんだ。
 これ、結局は、自分の場所があるということを改めて噛みしめる喜びなのでしょうね。

 そんなことを考えて風呂に入っている人もあまりいないでしょうが、しかし、こうした目で眺めれば、
成程みんな、実に自然に、自分の場所にいるではありませんか。
 肩に刺青を入れた粋がった兄さんだって、なに、日本人です、湯船の中にタオルを入れるようなことは決していたしません。これ、本当ですよ。今度注意して見てみて下さい。
 こういうの、いいなぁ、と思います。日本の文化、いいじゃあないか、って思います。

 こういう自分の場所にいる人たちって、別にこれと言って特別なことをしている訳ではないのですが、何故かしら、格好良く見えるものです。
 私、最近、月に2回は消防のポンプ点検というのに出掛けます。
出掛けると言ったって、向こうではただ突っ立って見ているだけですから、ポンプの動かし方も何も知りません。そんな中、手際よく、ドドドッとエンジンを掛けて、バババッと放水する連中を見ていると、
これ、ほんとに田舎の普通のおっさん達なのですが、やはり、カッコイイなぁ、と思います。
この錯覚、錯覚と言っては失礼ですが、やはり私が、居場所のない、まごまごとする外国人であるが故のものなのです。

 しかし、こういうまごまごとした目と言うのは、決して悪いものではありません。
何と言っても、物事が新鮮に見えますし、生活に味わいというものが生まれます。
 外国人になったつもりで、ちょっと日々の生活を見直してみる、これは意外に楽しいことです。
 ロンリープラネットという、英語圏の人間には非常にポピュラーなガイドブックがありますが、
私、これの「JAPAN」を持っております。
 食べ物から宿泊施設、交通手段、日本を旅するためのあらゆる情報が、外国人、それも主にバックパッカー向けに書かれておりますから、読み物として、ちょっとお勧めです。
 我々の知らない、新たな日本を、発見出来るのではないでしょうか。  

Posted by wajin at 12:10Comments(0)TrackBack(0)