2007年11月19日
将棋
昨日は、消防の訓練でした。
朝の7時に集合ということでしたから、そんなに早起きをして訓練中にお腹が下らないかしら、
と、そればかりが心配でした。
まじめな話、前例は、いくらでもあるのです。
ですから私、ゴクリと2粒、強力な整腸剤を飲んで、出動いたしました。
この薬が効いたのか、それとも前の晩、用心して9時に寝たのがよかったのか、とにかく訓練は無事に終了いたしました。
それから皆で朝飯を食べて、お疲れ様です、と解散したのが、まだ9時半でありました。
朝の6時に起きると、1日ってとても長いものです。
いつもなら漸く動き始める時間に、すでにひと仕事、それも前々から気を重たくしていた大仕事が
終わっています。
この調子なら、始まったばかりの今日1日を、なんだか有効に使えるのではないか、
そんな気がしてまいります。
ところが、そう考えるのは素人の浅知恵というものでして、やはり人間には、それぞれの容量という
ものがあるのです。
いくら時間が有り余っていたって、どんなにやる気に満ちていたって、そんなことは、電池が切れて
しまえば関係ないのです。
ですから私、昨日は、訓練に燃え尽きて、不本意ながらも終日まるまる、阿呆のようにぐったりとして過ごしました。
で、ぐったりと何をしていたかと言いますと、テレビで将棋を見ておりました。
私、将棋は子供の頃にやったくらいで、今では駒の動かし方もはっきりといたしませんが、
それでも、割りと好きなのです。棋士に関する本を読んだり、テレビで対局を眺めたり、
分からないなりにも、何故だか興味を覚えるのです。
いつでしたか、コンピューターと竜王の対戦、というのがありました。
これは大変面白かったです。勝負自体も勿論面白かったのですが、一番興味を引いたのは、
このコンピューターをプログラムした人が、まるで将棋を知らないということでした。
要するに、膨大なデータを如何に処理して計算するか、この方法を考え、プログラムする人ですから、別に将棋のことなんて知らなくてもいいんですね。
ところがこのコンピューターが、滅法強いんです。
また、滅法強いから、いよいよ竜王の登場となった次第なのです。
ちなみにチェスの世界では、すでにコンピューターが世界チャンピオンを打ち負かしているんですよ。
この対局、プログラマーの隣には、ちゃんと将棋の分かる棋士が座って、盤を挟んだ竜王と、
コンピューターの指示で実際に駒を動かし合う、というものでした。
結果は、竜王の勝利でしたが、しかしこれ、決して楽な勝利ではありませんでした。
で、投了の時、普通将棋って、何手も何十手も先を読んで差していますから、詰めが見えればもう、そこまでですよね。子供の将棋のようにしつこく最後まで打ったりせずに、参りました、と頭を下げて
終わりです。
ところがこのプログラマー、なにせ将棋を知りませんから、自分が詰まれていることが分からない。
隣の棋士が、参りました、と投了したのに驚いて、えっ、なんて声を上げました。
本当ですか? なんて小声で訊いて、棋士の説明にもなかなか納得がいかない様子でありました。
この気持ち、やはり将棋のよく分からない私には、非常によく分かるんです。
実は昨日テレビで見ていた対局も、後手が次から次へと王手で攻めていて、いきなりぷつっと投了、突然勝敗が決したんです。
どちらが投了したのかよく分からずに、てっきり攻め続けていた後手が勝ったものと思っていたら、
百何十手で、先手何々八段の勝ち、
なんてナレーションが流れました。
ええっ?どういうこと?と、私、本当にずっこけるような思いでした。
つまりは、繰り返すようですが、子供の将棋じゃあないんです。
先を読み、また、潮時も知る、大人の世界なのです。
しかし、ずっこけさせられた腹いせに、こんなことも考えます。
確かに、あと十数手も差せば、詰まれることは間違いないのかも知れない。
しかし、その十数手の間に、例えば相手が早起きによる腹痛を起こして、畳の上をもんどり打つ可能性だってあるではないか。
地震が起きて、駒が踊って、上手い具合にガチャガチャになることだってあり得るではないか。
どうしてそう、先を急ぐのだ。
何故君は、そんなに早く、投了してしまうのだ。
すると彼は、きっとこう答えるでしょうね。
そんなことで、仮に対局が流れても、もうすでに、負けは負けなのです。
つまり、負けというものは、状況が決するものではなく、自分の中で決するものなのです。
成程。
朝の7時に集合ということでしたから、そんなに早起きをして訓練中にお腹が下らないかしら、
と、そればかりが心配でした。
まじめな話、前例は、いくらでもあるのです。
ですから私、ゴクリと2粒、強力な整腸剤を飲んで、出動いたしました。
この薬が効いたのか、それとも前の晩、用心して9時に寝たのがよかったのか、とにかく訓練は無事に終了いたしました。
それから皆で朝飯を食べて、お疲れ様です、と解散したのが、まだ9時半でありました。
朝の6時に起きると、1日ってとても長いものです。
いつもなら漸く動き始める時間に、すでにひと仕事、それも前々から気を重たくしていた大仕事が
終わっています。
この調子なら、始まったばかりの今日1日を、なんだか有効に使えるのではないか、
そんな気がしてまいります。
ところが、そう考えるのは素人の浅知恵というものでして、やはり人間には、それぞれの容量という
ものがあるのです。
いくら時間が有り余っていたって、どんなにやる気に満ちていたって、そんなことは、電池が切れて
しまえば関係ないのです。
ですから私、昨日は、訓練に燃え尽きて、不本意ながらも終日まるまる、阿呆のようにぐったりとして過ごしました。
で、ぐったりと何をしていたかと言いますと、テレビで将棋を見ておりました。
私、将棋は子供の頃にやったくらいで、今では駒の動かし方もはっきりといたしませんが、
それでも、割りと好きなのです。棋士に関する本を読んだり、テレビで対局を眺めたり、
分からないなりにも、何故だか興味を覚えるのです。
いつでしたか、コンピューターと竜王の対戦、というのがありました。
これは大変面白かったです。勝負自体も勿論面白かったのですが、一番興味を引いたのは、
このコンピューターをプログラムした人が、まるで将棋を知らないということでした。
要するに、膨大なデータを如何に処理して計算するか、この方法を考え、プログラムする人ですから、別に将棋のことなんて知らなくてもいいんですね。
ところがこのコンピューターが、滅法強いんです。
また、滅法強いから、いよいよ竜王の登場となった次第なのです。
ちなみにチェスの世界では、すでにコンピューターが世界チャンピオンを打ち負かしているんですよ。
この対局、プログラマーの隣には、ちゃんと将棋の分かる棋士が座って、盤を挟んだ竜王と、
コンピューターの指示で実際に駒を動かし合う、というものでした。
結果は、竜王の勝利でしたが、しかしこれ、決して楽な勝利ではありませんでした。
で、投了の時、普通将棋って、何手も何十手も先を読んで差していますから、詰めが見えればもう、そこまでですよね。子供の将棋のようにしつこく最後まで打ったりせずに、参りました、と頭を下げて
終わりです。
ところがこのプログラマー、なにせ将棋を知りませんから、自分が詰まれていることが分からない。
隣の棋士が、参りました、と投了したのに驚いて、えっ、なんて声を上げました。
本当ですか? なんて小声で訊いて、棋士の説明にもなかなか納得がいかない様子でありました。
この気持ち、やはり将棋のよく分からない私には、非常によく分かるんです。
実は昨日テレビで見ていた対局も、後手が次から次へと王手で攻めていて、いきなりぷつっと投了、突然勝敗が決したんです。
どちらが投了したのかよく分からずに、てっきり攻め続けていた後手が勝ったものと思っていたら、
百何十手で、先手何々八段の勝ち、
なんてナレーションが流れました。
ええっ?どういうこと?と、私、本当にずっこけるような思いでした。
つまりは、繰り返すようですが、子供の将棋じゃあないんです。
先を読み、また、潮時も知る、大人の世界なのです。
しかし、ずっこけさせられた腹いせに、こんなことも考えます。
確かに、あと十数手も差せば、詰まれることは間違いないのかも知れない。
しかし、その十数手の間に、例えば相手が早起きによる腹痛を起こして、畳の上をもんどり打つ可能性だってあるではないか。
地震が起きて、駒が踊って、上手い具合にガチャガチャになることだってあり得るではないか。
どうしてそう、先を急ぐのだ。
何故君は、そんなに早く、投了してしまうのだ。
すると彼は、きっとこう答えるでしょうね。
そんなことで、仮に対局が流れても、もうすでに、負けは負けなのです。
つまり、負けというものは、状況が決するものではなく、自分の中で決するものなのです。
成程。
2007年11月15日
猫を噛む
旅の仲間が、インドの列車でバックパックを丸ごと盗まれてしまいました。
これ、本当によくある話でして、やはり荷物にはきちんと鍵を付けて、ポールに縛りつけるなり、
それ相応の用心をしなくてはいけません。
バックパックのような鍵の掛けづらいものにでも、なに、南京錠を2つ3つ見せかけでぶら下げて、
それだけだって、盗もうとする人間には大いに効果があるというものです。
私の実家には、至るところに「防犯カメラ設置」と書かれたシールが張ってありますが、
これ、父親のお手製のシールですから、誰が見ても非常にうそ臭い代物でして、その実やっぱり嘘なのです。
しかしそれでも、いくらかの効力は発しているような気がいたします。
私の家の近所では、家に鍵を掛ける者がおりません。
留守をしていても平気で鍵が開いていて、まあ、それで成り立つのですから、それだけ平和ということなのでしょうが、しかし先日、向こう隣のおばちゃんがやって来て、こんな話をして行きました。
このおばちゃん、家に小さな金庫を持っているそうです。
しかし、お金や通帳はそこには入れないのだと言うのです。
どうして入れないのだと尋ねると、決まっている、泥棒は金庫を狙うからだ、と、したり顔をいたします。
お金は別の場所に隠しておいて、金庫には、爪切りや耳かきなんかが入っているのだそうです。
おばちゃん、そんなに小ざかしいことを考えるくらいなら、まずは家に鍵を掛けなよ。
私がそう言うと、おばちゃんは、わはは、と笑っておりました。
で、インドで荷物を盗まれた彼。
深夜の長距離列車、目が覚めて事態に気がついたのが、ちょうど大きなジャンクションの駅だったそうです。列車は停車中で、冷静に考えれば、その駅で盗まれたという根拠は何もないのですが、
しかし彼、とっさにその列車を飛び降りたのだそうです。
実際、こういう深夜のジャンクションでの盗難は、頻発しているんですね。
停車時間も長いですし、乗り降りする乗客も多いですから、まあ、悪いことを考える連中には打ってつけの環境です。
どうしてこうなのかと嫌になるような押し合いへし合い、物売りもいれば赤帽もいる、牛もいれば犬もいる、ギャーギャーと何処かで赤子も泣いている、そういう一種の混乱の中、さっと荷物を掠め取られて、ひと度人混みに紛れ込まれれば、例え彼が血眼で飛び出したにせよ、再びこれを探し当てるというのは至難の業かと思われます。
ところがこの彼、オレンジ色の薄暗い明かりの灯る深夜のホームで、行き交うインド人を掻き分け掻き分け、その前方に、なんと自分のバックパックをずるずると引きずる、痩せたインド人の男の背中を見つけたのだと言うのです。
ザッと駆け寄って、むんずと男の肩を掴んで、この野郎っ、と怒鳴りつけると、その男、弾かれたようにパッと荷物を手放して、そうして、両手を開いて肩をすぼめて、ひと言こう言ったそうです。
「Why?」
「Why?」って・・、「Why」って言われて、俺、調子狂っちゃったよ。
インド人って、やっぱり面白いなぁ、と思います。
私が中学の頃の先輩に、ジャンボというあだ名の人がおりました。
これ、単純に体が大きかったからそう呼ばれていたのだと思いますが、このジャンボが、キセルをして駅員に捕まったことがありました。
当時は、自動改札が普及しておりませんでしたから、私なども、拾った切符を使ったり、定期券の日付をマジックで改ざんしたり、今では考えられないような原始的なキセルをしておりました。
で、このジャンボが捕まった時、駅員に、やはりむんずと肩を掴まれまして、大声で放ったひと言がこうでした。
「ばれたかぁ~」
私、あんまりこれが面白くて、その晩、父親にこの話をいたしますと、私の父、
「そいつは大物になるっ」
と、妙な太鼓判を押したのでした。
その後、ジャンボが大物になったかどうかは知りません。
しかし、窮鼠猫を噛む。
世の中には、色んな噛み方があるものです。
これ、本当によくある話でして、やはり荷物にはきちんと鍵を付けて、ポールに縛りつけるなり、
それ相応の用心をしなくてはいけません。
バックパックのような鍵の掛けづらいものにでも、なに、南京錠を2つ3つ見せかけでぶら下げて、
それだけだって、盗もうとする人間には大いに効果があるというものです。
私の実家には、至るところに「防犯カメラ設置」と書かれたシールが張ってありますが、
これ、父親のお手製のシールですから、誰が見ても非常にうそ臭い代物でして、その実やっぱり嘘なのです。
しかしそれでも、いくらかの効力は発しているような気がいたします。
私の家の近所では、家に鍵を掛ける者がおりません。
留守をしていても平気で鍵が開いていて、まあ、それで成り立つのですから、それだけ平和ということなのでしょうが、しかし先日、向こう隣のおばちゃんがやって来て、こんな話をして行きました。
このおばちゃん、家に小さな金庫を持っているそうです。
しかし、お金や通帳はそこには入れないのだと言うのです。
どうして入れないのだと尋ねると、決まっている、泥棒は金庫を狙うからだ、と、したり顔をいたします。
お金は別の場所に隠しておいて、金庫には、爪切りや耳かきなんかが入っているのだそうです。
おばちゃん、そんなに小ざかしいことを考えるくらいなら、まずは家に鍵を掛けなよ。
私がそう言うと、おばちゃんは、わはは、と笑っておりました。
で、インドで荷物を盗まれた彼。
深夜の長距離列車、目が覚めて事態に気がついたのが、ちょうど大きなジャンクションの駅だったそうです。列車は停車中で、冷静に考えれば、その駅で盗まれたという根拠は何もないのですが、
しかし彼、とっさにその列車を飛び降りたのだそうです。
実際、こういう深夜のジャンクションでの盗難は、頻発しているんですね。
停車時間も長いですし、乗り降りする乗客も多いですから、まあ、悪いことを考える連中には打ってつけの環境です。
どうしてこうなのかと嫌になるような押し合いへし合い、物売りもいれば赤帽もいる、牛もいれば犬もいる、ギャーギャーと何処かで赤子も泣いている、そういう一種の混乱の中、さっと荷物を掠め取られて、ひと度人混みに紛れ込まれれば、例え彼が血眼で飛び出したにせよ、再びこれを探し当てるというのは至難の業かと思われます。
ところがこの彼、オレンジ色の薄暗い明かりの灯る深夜のホームで、行き交うインド人を掻き分け掻き分け、その前方に、なんと自分のバックパックをずるずると引きずる、痩せたインド人の男の背中を見つけたのだと言うのです。
ザッと駆け寄って、むんずと男の肩を掴んで、この野郎っ、と怒鳴りつけると、その男、弾かれたようにパッと荷物を手放して、そうして、両手を開いて肩をすぼめて、ひと言こう言ったそうです。
「Why?」
「Why?」って・・、「Why」って言われて、俺、調子狂っちゃったよ。
インド人って、やっぱり面白いなぁ、と思います。
私が中学の頃の先輩に、ジャンボというあだ名の人がおりました。
これ、単純に体が大きかったからそう呼ばれていたのだと思いますが、このジャンボが、キセルをして駅員に捕まったことがありました。
当時は、自動改札が普及しておりませんでしたから、私なども、拾った切符を使ったり、定期券の日付をマジックで改ざんしたり、今では考えられないような原始的なキセルをしておりました。
で、このジャンボが捕まった時、駅員に、やはりむんずと肩を掴まれまして、大声で放ったひと言がこうでした。
「ばれたかぁ~」
私、あんまりこれが面白くて、その晩、父親にこの話をいたしますと、私の父、
「そいつは大物になるっ」
と、妙な太鼓判を押したのでした。
その後、ジャンボが大物になったかどうかは知りません。
しかし、窮鼠猫を噛む。
世の中には、色んな噛み方があるものです。
2007年11月07日
屋根裏
最近、屋根裏の掃除ばかりをしております。
私の家の屋根裏は、広さにして30畳ほど、昔の平屋建ての天井裏ですから、大人がゆうに立てる高さがあります。
昔はここで蚕をやっていたそうですが、今時の感覚で使うならば、ちょっとお洒落にいじくって、
男の書斎にするもよし、ゲストルームにするもよし、色々と夢の膨らむ素敵な空間であります。
しかしここ、兎に角すごいんです。
何がすごいのかと申しますと、大家曰く、20年や30年は誰ひとり上ったことがない、アンタッチャブルな世界です。
ひとたび足を踏み入れれば、モウモウと立ち昇る埃と煤。
明かり取りの小さな窓から差し込む頼りない光に、抜け殻の無数に付いた蜘蛛の巣が、キラキラと輝いて、別に何が住むという訳でもないのでしょうが、なんだか恐ろしいものが闇に隠れているような、
そんな不気味な場所なのです。
家というものは、多くの人にとって、自分が一番安らげる場所であると思います。
しかし、たった一枚、薄っぺらい天井板を隔てただけで、そこにはもう、まったく自分を受け入れない、恐ろしい未知の世界が存在しているのです。
そう考えると、人間の安心感って、案外チープなものなのだな、と思います。
もっとも、あまりこれを突き詰め過ぎて心を病んでもいけませんから、目をつぶるものには目をつぶる、これでよいのだと思います。
それでも私、こんな広いスペースを使わないのは勿体ない、それに何より、一度でもその恐ろしい世界を覗いてしまったからには、そのすぐ下で、オチオチ人の暮らしが成り立つようにも思われない。
前々から気にはなっていましたが、最近の暇に乗じて、一丁やってやろうではないか、という気持ちになったのです。
しかしまあ、繰り返すようですが、すごいんです。
埃というか煤というか、大変細かな黒い砂が、床一面、びっしりと数センチは積もっております。
これを掃除機で吸い取れば、その排気でモウモウと、大変なことになるのは目に見えておりますから、私、色々と考えた挙句、小さな小箒を買ってまいりまして、しゅう、しゅう、と、ひたすら地道に、まるで遺跡でも発掘するかのような作業を連日繰り返したのでした。
それでも、3重に装着したマスクを通して、鼻の穴が真っ黒になるほどでした。
壁から天井から梁から柱から、蜘蛛の巣を払って何度も雑巾掛けをして、そんなこんなを来る日も来る日も10日ばかり続けまして、ようやく3分の2程度の輪郭が、しゃきっとしてまいりました。
夜が更けて、ウイスキーを片手に梯子を上って、この裸電球に照らされた薄暗い屋根裏で、
とりとめのないことを考えます。
床板をこう張って、あすこに棚を作って、照明はこう取り付けて、そんなことを考えていると、
どんどんどんどん、夢は際限なく膨らみます。
最近では、実際のスペースではどう考えても無理なことまで考え始めたりしております。
東京に住んでいた頃、風呂がありませんでしたから、部屋の中に簡易シャワーを作ろうと考えました。台所に洗濯機用の排水溝があったことが発端でしで、私、帳面に、思いつくイメージを次々と
描きつけました。
その概容は、ファッションケースのような、チャックでシャアアと開ける縦長のビニールボックスで、
しかし、どうせ作るからにはその内装には凝りたいものです、あれやこれやと考えて、結局は、何も作らずに近くの銭湯に通い続けたのでした。
随分と経って、何かの拍子にこの時の帳面が出てきまして、これを見て、我ながら思わず笑ってしまいました。
そこには、大きな石を積み上げた岩風呂のような湯船の絵があり、その横には、何故だか鹿おどしまで描かれています。
果ては、太鼓橋のような見事な赤い橋が架かっていたりして、6畳ひと間のアパートで、台所に四角く囲ったビニールの中、私一体、どこまで行ってしまったのでしょうか。
しかし、10数年経った現在も、屋根裏でやっぱり同じことを繰り返しているような気がいたします。
私、ビリヤードが好きですから、中古の台を何処かで買って、プールバーでも作ろうかなぁ。
それとも、梁や柱で分割されたスペースを、それぞれ障子や襖で小部屋に仕切って、旅館のように何々の間、なんて名前をつけて、ゲストハウスでもやるかなぁ。
はたまた、鉢植えのバナナや椰子や南国の植物を所狭しと並べて、蔓でも蔦でもそこいら中に絡ませて、鬱蒼とした緑の中、この間タイで買ってきたハンモックを吊るして、読書でもするかなぁ。
と、酒が入っていることもありまして、こういうことは実に際限がありません。
しかし、何が楽しいかと言って、これが楽しい訳でして、実際の掃除や大工仕事なんていうものは、
実は私、あまり好きではないのです。
ところが、こういう実際の仕事がないところには夢も湧きませんから、まあ、鶏が先か、卵が先か、
夢想するために体を動かして、体を動かすために夢想する、そんな毎日で、あります。
私の家の屋根裏は、広さにして30畳ほど、昔の平屋建ての天井裏ですから、大人がゆうに立てる高さがあります。
昔はここで蚕をやっていたそうですが、今時の感覚で使うならば、ちょっとお洒落にいじくって、
男の書斎にするもよし、ゲストルームにするもよし、色々と夢の膨らむ素敵な空間であります。
しかしここ、兎に角すごいんです。
何がすごいのかと申しますと、大家曰く、20年や30年は誰ひとり上ったことがない、アンタッチャブルな世界です。
ひとたび足を踏み入れれば、モウモウと立ち昇る埃と煤。
明かり取りの小さな窓から差し込む頼りない光に、抜け殻の無数に付いた蜘蛛の巣が、キラキラと輝いて、別に何が住むという訳でもないのでしょうが、なんだか恐ろしいものが闇に隠れているような、
そんな不気味な場所なのです。
家というものは、多くの人にとって、自分が一番安らげる場所であると思います。
しかし、たった一枚、薄っぺらい天井板を隔てただけで、そこにはもう、まったく自分を受け入れない、恐ろしい未知の世界が存在しているのです。
そう考えると、人間の安心感って、案外チープなものなのだな、と思います。
もっとも、あまりこれを突き詰め過ぎて心を病んでもいけませんから、目をつぶるものには目をつぶる、これでよいのだと思います。
それでも私、こんな広いスペースを使わないのは勿体ない、それに何より、一度でもその恐ろしい世界を覗いてしまったからには、そのすぐ下で、オチオチ人の暮らしが成り立つようにも思われない。
前々から気にはなっていましたが、最近の暇に乗じて、一丁やってやろうではないか、という気持ちになったのです。
しかしまあ、繰り返すようですが、すごいんです。
埃というか煤というか、大変細かな黒い砂が、床一面、びっしりと数センチは積もっております。
これを掃除機で吸い取れば、その排気でモウモウと、大変なことになるのは目に見えておりますから、私、色々と考えた挙句、小さな小箒を買ってまいりまして、しゅう、しゅう、と、ひたすら地道に、まるで遺跡でも発掘するかのような作業を連日繰り返したのでした。
それでも、3重に装着したマスクを通して、鼻の穴が真っ黒になるほどでした。
壁から天井から梁から柱から、蜘蛛の巣を払って何度も雑巾掛けをして、そんなこんなを来る日も来る日も10日ばかり続けまして、ようやく3分の2程度の輪郭が、しゃきっとしてまいりました。
夜が更けて、ウイスキーを片手に梯子を上って、この裸電球に照らされた薄暗い屋根裏で、
とりとめのないことを考えます。
床板をこう張って、あすこに棚を作って、照明はこう取り付けて、そんなことを考えていると、
どんどんどんどん、夢は際限なく膨らみます。
最近では、実際のスペースではどう考えても無理なことまで考え始めたりしております。
東京に住んでいた頃、風呂がありませんでしたから、部屋の中に簡易シャワーを作ろうと考えました。台所に洗濯機用の排水溝があったことが発端でしで、私、帳面に、思いつくイメージを次々と
描きつけました。
その概容は、ファッションケースのような、チャックでシャアアと開ける縦長のビニールボックスで、
しかし、どうせ作るからにはその内装には凝りたいものです、あれやこれやと考えて、結局は、何も作らずに近くの銭湯に通い続けたのでした。
随分と経って、何かの拍子にこの時の帳面が出てきまして、これを見て、我ながら思わず笑ってしまいました。
そこには、大きな石を積み上げた岩風呂のような湯船の絵があり、その横には、何故だか鹿おどしまで描かれています。
果ては、太鼓橋のような見事な赤い橋が架かっていたりして、6畳ひと間のアパートで、台所に四角く囲ったビニールの中、私一体、どこまで行ってしまったのでしょうか。
しかし、10数年経った現在も、屋根裏でやっぱり同じことを繰り返しているような気がいたします。
私、ビリヤードが好きですから、中古の台を何処かで買って、プールバーでも作ろうかなぁ。
それとも、梁や柱で分割されたスペースを、それぞれ障子や襖で小部屋に仕切って、旅館のように何々の間、なんて名前をつけて、ゲストハウスでもやるかなぁ。
はたまた、鉢植えのバナナや椰子や南国の植物を所狭しと並べて、蔓でも蔦でもそこいら中に絡ませて、鬱蒼とした緑の中、この間タイで買ってきたハンモックを吊るして、読書でもするかなぁ。
と、酒が入っていることもありまして、こういうことは実に際限がありません。
しかし、何が楽しいかと言って、これが楽しい訳でして、実際の掃除や大工仕事なんていうものは、
実は私、あまり好きではないのです。
ところが、こういう実際の仕事がないところには夢も湧きませんから、まあ、鶏が先か、卵が先か、
夢想するために体を動かして、体を動かすために夢想する、そんな毎日で、あります。
